ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

『綾鼓』の変容

 能の『綾鼓』は更に多くの文学作品を生んでいます。戦前1922年には能楽研究者・野上豊一郎の妻で作家の野上弥生子が、舞台を古代メソポタミアに移した戯曲『綾の鼓』を書いています。ここで鼓を打つのは老人でなく若い羊飼いです。また戦後1957年には有吉佐和子が、日本舞踊の舞踊劇『綾の鼓』を書きました。こちらでも鼓の打ち手は若者です。さらに中里恒子は1985年に、戦争をはさんで東京とスペインで展開する恋愛小説『綾の鼓』を書き下ろしました。そこでは能の物語が通奏低音のようにストーリーを支えています。日本文学研究者ドナルド・キーンさんは、能『綾鼓』は「美と愛と死」という普遍的なテーマを扱っていたと、三島由紀夫『近代能楽集』の解説に書いてますが、普遍的ゆえに多くの作家がそこから新しい物語を紡いでいるのでしょう。古典の持つ意味は文学も音楽も共通しています。
 ここでは野上弥生子有吉佐和子の作品のあらすじを載せておきます。

野上弥生子「綾の鼓」(一場)

  • 初出:『改造』第4巻第1号(1922年1月1日)
  • 人:王 ラシド、妃 マリナ、侍従 ヂャファル、家来 メスルル、園丁 ハサン、侍女、廷臣
  • 所:バグダットの都に近きラシドの離宮
  • 時:古代
  • あらすじ:

 王妃マリナの姿を一目見て恋に落ちた若い羊飼いが捉えられている。王ラシドは、池のほとりの木にかけた鼓を羊飼いに打たせる計画をたて、王妃も同意する。皮でなく藺草(イグサ)を張った鼓は鳴るわけがない。夕方になり準備を進めていると、王妃は急に恐ろしさに執りつかれ計画の中止を言い張るが、王は予定通り進めさせる。家来が走り来て、羊飼いが鼓を打っても鳴らないので池に身を投げたと伝える。しかし耳をすませると、鼓の音が鳴るのが聞こえる。王妃は池に向かって走り出す。騒がしい物音が起き、家来が「お妃様が!」と叫ぶ。

有吉佐和子『綾の鼓』

  • 初演:第3回西川会公演 1957(昭和32)年4月28・29・30日 於 御園座
  • 登場人物:三郎次(15歳より18歳)、華姫(13歳より16歳)、秋篠(42歳)、腰元(8人以上)、絹商人(間狂言として)
  • 時代は室町。処々に挿入された早歌は今様に似たテンポであること。
  • あらすじ:

 華姫の屋敷に仕える庭掃きの三郎次は、華姫に恋慕している。それを知った華姫は退屈しのぎに綾の鼓を三郎次に与え、鼓が鳴ったら望みをかなえようと伝える。三郎次は何度も打つが音はせず、立ち去る。
 昔は都で白拍子をしていたという機織りの秋篠は、亡くした息子と同い年の三郎次を迎え入れ三年が過ぎる。鼓の腕も上がった三郎次は華姫の屋敷に再び向かい、華姫の前で綾の鼓を打つと、冴えて鳴る。「三郎次」と呼ぶ華姫の元を去った三郎次は、秋篠の家へ向かう。

  • 作者の言葉:

 三郎次が打つ綾の鼓は、母性という滋養があって初めて音を立てるのです。しかも彼に生きる執念を抱かせた驕慢の華姫は、彼の修業の契機となっています。−−女がいなくては男は成長しないという私の異性観を、私は私の綾鼓で充分に主張したつもりですが、いかがでしょうか。

  • 参考:西川右近、西川千雅編『日本舞踊 舞踊劇選集』(名古屋、西川会、2002)所収