ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

「エリック・サティとその時代展」図録

 2015年に開催されたサティ展の図録。バレエ『パラード』に関する資料もいろいろ展示されたそうです。

エリック・サティとその時代展
 [東京] : アートインプレッション, c2015
 171p : 挿図 ; 26cm + 録音ディスク1枚 (ディジタル, ステレオ)
 並列書名: Erik Satie et son temps
 注記: 展覧会カタログ ; 会期・会場: 2015年7月8日-8月30日: Bunkamuraザ・ミュージアム, 2015年9月12日-11月1日: 浜松市美術館 ; 付録: コンパクトディスク ; 付: 正誤表
内容:

  • ごあいさつ
  • オンフルールからアルクイユへ:エリック・サティの肖像 / ミシュラ・ニコライ …8
  • モンマルトルの世紀末 / フィリップ・デニス・ケイト …17

カタログ

  1. モンマルトルでの第一歩 …25
  2. 秘教的なサティ …55
  3. アルクイユに移って …69
  4. モンパルナスのモダニズム …83
  5. サティの受容 …123

  コラム:『パラードの実現まで』 / 黒田和士 …92-93
  コラム:ブランクーシのアトリエと《ソクラテス》 / 黒田和士 …114-115

  • エリック・サティ『スポーツと気晴らし』 …144
  • エリック・サティ年譜 …148
  • 主要参考文献 …152
  • D'Honfleur a Arcueil: portrait d'Erik Satie / Michela Niccolai …154
  • Montmartre: Fin-de-Siecle / Phillip Dennis Cate …161
  • 出品リスト …165

「モンパルナスのモダニズム」より

 サティのモンパルナス時代は共同制作において極めて実り多く多彩な時期であった。若き日のジャン・コクトー(1889-1963)との出会いは共に(互いを知らずして)、実現を見なかったメドラーノ・サーカスにおける『夏の夜の夢』の上演計画(1915)に参加し、時には困難な時期もあった7年にわたる交流が始まった。1917年の『パラード』のプロジェクトでは、似た考えをもった芸術家3人が集結し、コクトーが筋書きを(むしろ筋書きのない筋書きだが)、サティが音楽を、パブロ・ピカソ(1881-1973)が舞台関係を受け持った。1917年シャトレ劇場でセルジュ・ド・ディアギレフ(1872-1929)の一座バレエ・リュス[ロシア・バレエ団]が演じたこの「現実主義的バレエ」は大成功を収めると共に批評界の顰蹙(ひんしゅく)を買うこととなった。とりわけ槍玉に上がったのはタイプライターの音と警笛、ピストルの発砲音で、これはコクトーの勧めに従ってサティがオーケストラに組み込んだものだった。(後略)(p83)

パブロ・ピカソ《『パラード』の幕》解説より

 ピカソは最初の舞台の情景を絵が描かれた幕に置き換え、ダンサーが出てくるまで観客がそれを見て想像を巡らすようにした。(中略)この幕へのオマージュとして、サティは観客がそれを見ているときに聴くための《赤い幕の前奏曲》を作曲した。サティの音楽は透明感とユーモア、簡潔性を特徴とする現代性を導入し、ジャズの要素を取り入れることも恐れなかった。ギヨーム・アポリネールはプログラムの説明文の中で、この出し物を「超・現実的(シュルレアスム的)」と定義している。(M.N.)(p84)

アポリネールの批評について

 『パラード』には、コクトーによって「現実主義的バレエ」という副題が付されており、アポリネールはこれを受けて同批評[エクセルシオール紙とバレエ・リュスのプログラム]の中で「シュルレアリスム」(超現実主義)という造語を作り出した。この言葉はのちにアンドレ・ブルトン(1896-1966)らによって再解釈され、両大戦間に生じた芸術運動を指す言葉として利用された。(K.K.)(p94)

「中国の奇術師」について

 中国の奇術師は公演全体の振付を手がけたレオニード・マシーン自らが担当した。マシーンはバレエ・リュスを解雇されたヴァーツラフ・ニジンスキー(1889-1950)の次の時代を担ったダンサー兼振付師であった。『パラード』の芸人役の中で最初に登場するこの奇術師は、パリの大衆文化をバレエへと引用するこの公演において重要な存在となる。というのも、1900年頃から第一次世界大戦にかけて、中国の奇術師はパリの大衆的興行において欠かせない存在となっていたのである。(K.K.)(p87)

アメリカの少女」について

 『パラード』の芸人役として中国の奇術師の次に登場するのが、セーラー・ドレスを身にまとい、頭に大きなリボンをしたアメリカの少女である。(中略)
 こうしたアメリカ映画の流行の背景には、大戦の影響によるパリの映画会社の休業があるが、他方でアメリカ発祥のラグタイムやケークウォーク、ジャズといった文化はミュージックホールを中心にすでにパリの大衆文化に浸透していたのである。(中略)
 コクトーの構想に基づいて、サティはアメリカの少女の音楽にタイプライターの音や、重々しい船の警笛、ピストルの発砲音を入れた。これらは映画を通じてパリの大衆に広まったアメリカの刺激的なイメージを表すものであった。(K.K.)(p88)