ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

伊藤昇『マドロスの悲哀への感覚』その4:各楽章の内容

 伊藤昇『マドロスの悲哀への感覚』の各楽章の初めには、米窪太刀雄著『マドロスの悲哀』からの文章が、下記の通り引用されています。楽章ごとに内容と背景を挙げておきます。

■第1楽章「自然的墓地」

六連(むつれ)から済州島隠岐、松島、釜山を連ぬる圏内の海底は、之を大袈裟に言へば一の巨きな自然的墓地(ナショナル バララ)である。即ち、佐渡丸、金州丸、常陸丸、リューリック其の他バルチック艦隊の諸艦船が、或る者は弾庫の底に砲員を、或る者は汽缶室(ストックホールド)の中にエンジニーアを載せた儘、生き乍ら水埋めにされた所である。其他水に溺れて死んだ軍属や軍卒、潔ぎよく軍刀で割腹して水底に沈んで行った将校などの死屍が、千百と数知れず、錆びた鉄板や曲った大砲などの間に交って、魚に啄つかれ潮に洗はれて腐って行き晒されて行った事であらう。

 米窪太刀雄マドロスの悲哀』第4章「幽霊船の話」は、老水夫の話として関門海峡にある彦島の南、福浦の入江斜面の墓について書かれています。船から投げた網に魚でなく白骨がかかることがあり、それは日露戦争(1904-5)で沈んだ軍艦の乗組員のものかもしれず、次々発見する白骨を船員たちは福浦の斜面に葬ったそうです。引用文に出てくる佐渡丸、金州丸、常陸丸はいずれも日露戦争に参戦した日本海軍の船であり、リューリックはロシアのバルチック艦隊の船です。『マドロスの悲哀』が出た1916年は、日露戦争から10年ほどしかたっていませんでした。なお六連(むつれ)は、彦島の北西にある六連島のことです。

■第2楽章「幽霊船」

二等機関士は呆気にとられて了った。そうして『一体どうした事か?』と、正に彼等に訊問しやうとした刹那…!! まだ鼓膜に響いて居るやうに思って居る先き程の声に寸分違はぬ、恨む声、罵る声、呻(うごめ)く声、もがく声、苦しむ声、泣く声、笑ふ声が左舷のボイラーの前の……しかし人っ子一人居らない空間から起って来た――
其から幽霊は吾物顔に機関室に跳梁するやうになった。ハムマーやチズルが何時の間にか缶の下に持って行かれたり、蒼白い手がラムプの影から出て来たりした――

 米窪太刀雄『マドロスの悲哀』には幽霊船の話がいくつもでてきますが、ここで引用されているのは第17章「「勝立丸」の幽霊」です。勝立丸(かちだてまる)は三井の傭船として九州の三池、中国、シンガポール間を運航していました。ある時長崎からの密航者9人の女と2人の男が、ボイラーのところに隠れたそうです。すると航海中にボイラーの一つが爆発し、彼らは焼死、海へ葬られました。以後女の幽霊がしばしば船内に現れた、という話です。このように幽霊はだいたい不慮の死をとげた人たちの怨霊として現れますが、中には英国の軍艦でいじめられて水死した少年の幽霊をつかまえたら、それは当の少年で、水死は狂言だった、という話もありました。米窪の作品には古今東西の文学からの引用が多々あります。

■第3楽章「深更当直」a)モールス信号

濁った空と冷めたい海の間から力のないボンヤリした芒光(フラッシング)が、此の憐れな士官を慰めるやうに浮かび上って来る――

 第3楽章「深更当直(ミッドナイトウォッチ)」は、a)モールス信号と、b)帆の子守唄、からなります。「深更」とは真夜中のことですが、米窪太刀雄マドロスの悲哀』第19章「モールス信号」には、当直担当者が航行中に船に出会った際(引用文)にやりとりするモールス信号について、詳しく書かれています。最初は船の名前を「what ship」と尋ね、返事がくれば「どこからどこへ?」「何日かかる?」「行くての風向きは?」と矢継ぎ早に聞くこともあります。英国船、フランス船、イタリー船など相手により反応も様々だったりします。ある時英国船から「which win」と聞かれ、丁度伊土戦争の時だったので答えはイタリアかトルコか、と考えていたら、実はボクシングの試合結果を聞いてきたのだった、ということもあったそうです。変化の少ない航海中なので、別の船に出会った当直は、モールス信号の光で会話を楽しんでいた様子です。なおこの部分は管楽器とチェレスタのみで演奏されます。この曲は夜中なのにずいぶん賑やかな音楽なので不思議に思っていましたが、本を読んで納得しました。

■第3楽章「深更当直」b)帆の子守唄(ラーラビー オブ セイル)

然し吾等の耳は帆桁(ヤード)が深更の当直に悲しい子守唄(ラーラビー)を歌ふのを聞く――

 米窪太刀雄マドロスの悲哀』第16章「伝説の海岸」では、海洋上に起こる様々な不可思議な現象を、科学的に見るのでなく、聖なる海洋精気(メルエスプリ)の体現として見ると、そこに伝説が生まれる、と述べています。そして引用文の箇所が続き、「船と理論とを作ったものは文明や科学であろうが、海洋と伝説と吾等の心とを造ったものは神様である」とマドロスは嘯(うそぶ)く、と述べています。マドロスの心情をロマンチックに歌い上げているようです。この部分は木管、ピアノ、そして弦楽器のソロのみで演奏されます。

■第4楽章「金曜日の出帆(しゅっぱん)とDANKI」

金曜日。天気、曇。
午後七時ホノルルに向け室蘭を出帆す。金曜日の出帆が気にかかって仕方がない。雨上りの朧気が一面に南の方の水平線を暈(くら)めて、夕方の黄昏時を早める。気のはるべき船出に何事ぞ!!寂しい孤独の思いのみ、心の隅から隅へと広がる――

 「DANKI」とは、「種々の不縁起な異変に対して日本の海員達は『ダンキが悪い』と云い、所謂不詳的意義を有つ。(前兆(オーメン)と同義語)」と作曲者がメモ書きしています。米窪は「ダンキが悪い」は「縁起が悪い」ということだと別の本に書いています。
 米窪太刀雄マドロスの悲哀』第10章「脱船者の運命」では、金曜日に出帆した船がカナダのビクトリア湾に着いたとき、二人の少年船員が脱船し、結局二人とも命を落としたことを挙げ、金曜日の出帆は縁起が悪いことをつくづく述べています。

■第5楽章「シャトルより浦塩まで」

鎖(チェイン)が断(き)れて舵能(スチャレイジ)が不具となった当然の結果として、船は全く風浪の弄ぶままに左右に傾き前後に倒(のめ)させられた。船首へ滝のやうにうち込んだ水は、前部上甲板を洗ひ、船橋(ブリッジ)を越え、司厨所(ギャレイ)を水漬けにして、躍るが如き狂瀾は、船の前半部を蔽い、後半部を埋めて驀地(まっしぐら)に殺到して来た事幾度であったろう!。或る時は右舷は杓子のように海を掬って、左舷は仰ぐがやうに天に冲した。皿は飛んで破(わ)れ、人は辷って輾転し、窓や戸や抽出や椅子はあらゆる方向(むき)に放り出された。――
(練習番号56)
マストが両舷の水を叩き乍ら進行しやうとも、水漬けになった甲板に苔が生えやうとも――

 米窪太刀雄マドロスの悲哀』第11章は楽章と同じシャトルより浦塩まで」です。シャトルは米国西海岸のシアトル、浦塩はロシアのウラジオストックです。ここを結ぶ航路の悪天候時の様子がまざまざと描かれています。


 以上、伊藤昇『マドロスの悲哀への感覚』の各楽章をご紹介しました。伊藤昇が米窪太刀雄の作品から取り上げたのは、航海中の様々なエピソードであって、船員の待遇の悪さではないことがお分かり頂けたかと思います。

【参考】