ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

福島雄次郎『ヤポネシア組曲』をめぐって

 福島雄次郎の『ヤポネシア組曲』を練習していて、「ヤポネシア」って何、と話題になりました。皆なんとなく、鹿児島から沖縄にかけての島々の事をヤポネシアっていうのかな、くらいの感覚でした。ところがある人が、「ヤポネシアは作家の島尾敏雄の造語です」と調べて来たのです。そこで私もいろいろな資料にあたってみました。
 前回のエントリーに書きましたが、「ヤポネシア」という言葉はラテン語のJaponia(日本)とnesia(島々)を結びつけたものです。「日本」という国を太平洋の側から見て千島列島から琉球諸島に至る島々の連なりとしてとらえ、その全体を島尾敏雄(1917-1986)は「ヤポネシア」と名付けました。それまでの歴史観では日本の文化は大陸から九州あるいは大和地方に伝わり、それが全国に波及したという考えが主流でしたが、それだけでなく北からも南からも多くの物が伝わり、人々の交流があり日本の文化が育った、というのが島尾の見方でした。そうした見方自体は戦前からもありましたが、それに「ヤポネシア」という言葉をあてはめたのは島尾でした。
 島尾は横浜生まれですが、戦時中特攻隊員として奄美諸島加計呂麻島で出陣を待つ間に終戦となりました。島で出会ったミホと結婚し、神戸や東京での作家生活の後1955年に再び奄美に渡って約20年間暮らしました。その間1958年から1975年まで、鹿児島県立図書館奄美分館の館長を務めています。日中は図書館の仕事に携わり、帰宅して寝るまでの間に様々な文筆活動をしていたのです。
 奄美大島の図書館の守備範囲は大島だけでなく、奄美諸島全体に渡ります。北から喜界島、奄美大島加計呂麻島与路島、請島、徳之島、沖永良部島与論島と、全長250Kmにもわたる範囲に、島尾は図書館の本を運んで何度も渡っていたのです。そうした経験を積み重ねる中で、奄美諸島の風土と歴史に親しんで行きました。そして図書館長として各地で講演をする機会が多くあり、そこで1960年代から「ヤポネシア」の構想が何度も語られていきました。また新聞や雑誌などに書き記されたものも数多くあります。
 島尾の唱えた「ヤポネシア」は多くの人の心をとらえ、九州だけでなく全国の知識人たちの話題になっていたことは、『ヤポネシア序説』(1977)に見られるとおりです。また作家の立松和平は、『ヤポネシアの旅』(主婦の友社、1986)始め何冊もの著作でヤポネシアにふれています。

 沖縄に立つと、その足元の土が世界の中心なのである。島尾敏雄さんがいいだしたヤポネシア論は、何もかもが東京を中心に構成されている今日の日本を、地球から地表をはいで裏返しにしたような感がある。
 ヤポネシア、すなわち日本列島をその一部とする大きな列島を形成した背骨は、黒潮である。黒潮を中心にして見るかぎり、南に下るというのはおかしい。南に上るのである。
(出典:立松和平『野生の水 : ヤポネシア紀行』 スコラ、1991、p215)

 さて作曲家・福島雄次郎は、1977年に神奈川から鹿児島へ移住しており、島尾の唱える「ヤポネシア」構想にどこかで接したことは充分考えられます。そして1986年から1992年にかけて作曲されたのが、『ヤポネシア組曲』です。