ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

古澤淑子とクロワザ(その3)

 クロワザ(1882-1947)は古澤淑子の個人的問題などにも気を配ってくれたそうです。また夫人には息子が一人いました。

 夫人の一粒ダネの坊や、ジャン・クロードは、当時、12、3歳。金髪で頬がボーっと赤い可愛い坊やで、学校の帰りいつも夫人を迎えにきていた。夫人がお母さんになると、とても優しく、坊やがいっこうに音楽に興味を示さないことを嘆きながら、機械に興味を持っていることを嬉しそうに話すのだった。マダム・クロワザ夫人の息子、ジャン・クロ―ドは、マダムと作曲家オネゲルとの間に生まれた。

 息子の年齢からすると、生まれたのは1925年ころ、荻野綾子が最初にパリを訪れクロワザの門をたたいたころです。

 オネゲルとクロワザ夫人の接点がいつどこで始まったかについては定かではないが、その出会いは当時のオネゲルの六人組時代の必然だったような気もする。ドビュッシーを誰よりも理解し、その繊細なリズムの選択と詩の合致を尊び、洗練の極といわれる美意識を自らの歌唱のうえに表現しえたクロワザ夫人と、深い敬愛と影響ゆえにドビュッシーを否定する立場にある六人組の旗手・オネゲル。(中略)
 淑子の知るクロワザ夫人は、つねに凛とし、優雅で、教えることに献身的な知性の人であった。クレール・クロワザ、1882年9月14日パリ生まれ。その後の経緯は明らかではない。淑子がかつて太田綾子に聞いた記憶によると、クロワザ夫人は音楽学校へは行かず、すべて独学で、努力しつづけた人であった。

 クロワザは淑子が渡仏する3年前の1934年にコンセルヴァトワールの教授に任命され、その後第二次大戦終結のころまで教えていたそうです。荻野(太田)綾子が1944年に他界したことは伝わっていたのでしょうか。

 マダム・クロワザはコンセルヴァトワールの教授をしながら、数多くの公開レッスンをこなしていた。音楽学校卒業生、研究生、演奏家を本当に精力的にレッスンしていた。指導者としての教養の深さ、レベルの高さ、プログラムの自在さに加えて、人格の高さと魅力のすべて。まさにフランス歌曲の指導者として第一級の存在であった。−淑子がリサイタルを開いた1944年ころまでは。

 
出典:星谷とよみ『夢のあとで:フランス歌曲の珠玉 古澤淑子伝』(文園社、1993)p85-88、134