ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

ピカソ『ゲルニカ』

 藤田嗣治の本には、彼のアトリエを訪れた1人にピカソの名前がでてきた。思わず書架の『ゲルニカ』を読む。「ゲルニカ」は1937年にスペインの内戦で無差別大量爆撃が行われた小都市。パリにいたピカソはそれを告発する大きな作品を一気に書き上げ、同年のパリ万博スペイン館に出展した。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(1943)に通じる何かを知りたくて、一気に本を読み終える。1937年は荻野綾子が3度目にパリを訪れた年。

ゲルニカピカソが描いた不安と予感 / 宮下誠
 東京 : 光文社, 2008
 225p ; 18cm (光文社新書
目次:
 はじめに … 3
 第1章 神話的メッセージ … 15
 第2章 制作過程 … 37
 第3章 美術史の中の『ゲルニカ』 … 95
 第4章 オリジナリティと多層性 … 139
 第5章 呪術的な力-歴史画として読む … 163
 第6章 ピカソの予感-「負」の戦争画 … 187
 おわりに … 215
 謝辞 … 221
 参考文献 225

 以下、本文で気になった箇所のメモ。
岡本太郎は言うまでもなく、『アッツ島の玉砕』を描いた藤田嗣治にさえ『ゲルニカ』は残響しているように思われる。(p102-103)
ピカソは(中略)1917年、ディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のローマ公演へ帯同(エリック・サティの革新的バレエ音楽『パラード』の舞台衣装と舞台装置を担当)した際、そこで知り合ったダンサー、オルガ・コクローヴァとの結婚を機に、急速に古典主義へと転向する。(p116)
ピカソは中世最晩期からルネサンスにかけて、ドイツ、ライン地方で活躍したグリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』中の「磔刑図」にインスパイアされて「磔刑」のシリーズを描くようになるが、この死児を抱き泣く女は、キリストの死と再生の物語を連想させる象徴と捉えることも可能だろう。(p132)〔ヒンデミット『画家マチス』を想起〕
・物語には始めと終わりがある。(中略)私たちはそれをもって安心する。だからジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』や『フィガンズ・ウェイク』を読むと不安になる。そこには物語の展開を解体し、私たちを常にあらぬ方向に向かわせる不条理な力が働いているからだ。あるいはダダの立役者トリスタン・ツァラの詩に不安を感じるのも同じことだ。(p174-175)〔武満徹『アントゥル・タン』を想起〕