ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

山田和男『呪縛』を調べる

 今日から夏休み、早速日本近代音楽館へ行って山田和男作品の初演データについて調べました。交響組曲『呪縛』は元がバレエ音楽なので、交響作品のレファレンスブックにはデータが載っていません。『一音百態』巻末の「山田一雄主要作品表」(小鍛冶邦隆編)の1940年のところに「同年、貝谷八百子バレエ劇場第3回公演で作曲者指揮、初演」とあるだけでした。スコアの最後に「3月23日1940、舞台稽古の朝」と書かれているので、そのすこし後、ということしかわかりません。
 日本近代音楽館にある演奏会プログラムを検索するデータベースでは、日付と公演名から検索できます。そこで「1940年3月」と入れてみましたが、該当するものはありませんでした。今度は「公演名」の方に、「貝谷」と入れてみたところ、1940年代のものはありませんでしたが、1989年の創立50周年記念公演と、1997年の創立60周年記念公演のプログラムがヒットしました。周年のプログラムなら創立前後のことがわかるかもしれないと思い、書庫から出してきていただいて閲覧しました。
 50周年プログラムの巻末レパートリーの1940年に『呪縛』は載っていました(写真)。そして巻頭に、江口博「八百子のデビューのころ」という一文がありました。

 彼女が歌舞伎座で初の公演を催してバレエ界にデビューしたのは昭和13年の末だった。まだ17才になったばかりの少女である。果然それは大きなセンセーションを巻き起こした。私の記憶では、ひとりのバレリーナのデビューで八百子ぐらいセンセーショナルにさわがれた例は皆無である。まったくそれは彗星のごとき出現ということばにふさわしかった。しかもその彗星のごとき少女が歌舞伎座を借りきって3日間も公演をつづけ、大入り満員だったのだから、世間で驚いたのも無理ではない。
[中略]
 八百子は第1回公演が成功した余勢を駆って、第2回、第3回とつづけさまに歌舞伎座で公演し、その名を不動のものにするとともに、彼女自身バレエ界で最もかがやかしいスターの位置についた。

 ということで、会場は歌舞伎座だったことがわかりした。念のため歌舞伎座百年史. 資料篇』(松竹、1995)も出していただいて該当年月のところを見ると、確かに「1940年3月27-29日 貝谷八百子バレエ劇場 午後5時半開演」と書かれていました。これで日付もわかりました。ちなみに歌舞伎座の直前の公演は、「3月1〜26日 奉祝紀元二千六百年記念興行 恒例團菊祭 通し狂言『裏表忠臣蔵』、大喜利 川尻清潭作『昔噺桃太郎』となっていました。
 閲覧室の先客はなんと旧知のLさん。バレエを調べていると話すと、それならこれをご覧になったらと教えてくださったのが、『江口隆哉と芸術年代史』東京新聞出版局、1989)。戦前からのバレエ公演が年代順にまとめられていて、1940年をみたら確かに「貝谷八百子第3回舞踊公演(3/27〜29)歌舞伎座」と書かれていました。もっとも1940年のところはほとんどが深井史郎のバレエ曲『創造』についての解説でした。
 ということで、ネットではわからない情報がたくさん得られた一日でした。