ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

『さすらう若人の歌』と『美しき水車屋の娘』

 マーラーの『さすらう若人の歌』について、ずいぶん昔に書いた文章のことを思い出しました。山田一雄先生の指揮でシューベルト『未完成』とマーラー大地の歌』をやったときの演奏会プログラムに載せたものです。

未完成 ― シューベルトマーラー
 この二人の作曲家の名前を耳にする時、私達は「音楽の都」ウィーンに思いを寄せるだろう。しかしシューベルトが生涯ウィーンの地に育まれながら作曲をしたのに対し、マーラーは宮廷歌劇場の指揮者をつとめながらも、決してその地に相和することなく、その生涯を終えている。そして「ウィーン」に対するこのような関わり方の違いが、二人の音楽の上にも如実に表れている。
 シューベルトは、その短い生涯(1797-1828)の間に、交響曲室内楽曲・歌曲その他様々なジャンルに、数えきれない程の作品を残している。グレートとよばれるハ長調交響曲室内楽のいくつかは、かなり長大であるが、作品の多くは珠玉の小品と呼ぶのが相応しい。そしてそれらの中には、当時のヨーロッパの小市民的生活と幸福感が至る所顔を出している。歌曲の王と言われる彼の傑作の一つ、「美しき水車屋の娘」で歌われているのも、娘に失恋する若者の素朴な感情である。
 一方マーラー(1860-1911)の作品は少なく、11の交響曲のほかは、いくつかの管弦楽付き歌曲と室内楽があるだけである。しかし、それらはいずれも長く、重い。そして「水車屋の娘」と同じ設定の歌曲「さすらう若人の歌」では、若者の悲しみはより深く、しかも暗い。それはあたかも、どこにも安住の地を見出せないマーラー自身の心情のようでもある。
 シューベルトの未完成がなぜ未完成なのかは、諸説あるが、それが死によるものでないことは確かである。マーラーは先人の例を嫌って9番目の交響曲に番号をつけず、「大地の歌」としたが、彼の第10交響曲は死によって中断してしまった。

出典:新交響楽団第108回演奏会プログラム(1985)