ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『続・私の半生記』:上野の森へ

 震一は1947年(昭和22)小樽高商卒業後大成建設へ就職しましたが、肌に合わず一ヶ月ほどで札幌鉄道局(現JR)に転職しました。職場の家族慰安会で筝を弾いたり、上司の尺八と合奏をしたりもしました。職場の合唱団があることを知り、早速入団してシューマンの『流浪の民』などを歌いました。(写真は合唱練習をした札幌鉄道管理部本局の建物。p11)
 札鉄合唱団は職場合唱コンクールの北海道予選を勝ち抜き、1948年(昭和23)1月中旬に本選のため上京することになりました。しかし神田の共立講堂で行われた第1次本選で落選してしまい、このまま帰るのも悔しいので上野公園の界隈を一周し、東京音楽学校を訪問してみることにしました。奏楽堂はじめ伝統ある校舎のたたずまいに一同感嘆したそうです。

上野の森へ
…折から受験期を控えて、当校でも受験生のための受験要綱が置かれていた。申し合わせたかのように一同手にとり目を走らせた。だれかが突然小声で『どの科なら受けられるかしら』とつぶやくと、やがてこの問題提起は一同に拡がり、これは駄目、あれも駄目と賑やかな会話に展開していった。
 ひと通り入試要綱を読み終えた私は自分の能力を試したい衝動に駆られ、そのまま東京に残ることに決めた。受験願書を提出したのは邦楽科生田流筝曲であった。入試科目は学科と実技、それに聴力テストが加わっていた。
 学科は国語、外国語(独・仏・英・伊・露の中から一つを選択)歴史(西洋・東洋・日本のうち一つ)楽典の四つ。実技は第一次と二次に分れ、一次にパスした者だけが二次を受験するようになっていた。実技は課題曲が五曲指定されていて、この曲は年度によって変更されるようだが、昭和二十三年度ではみだれ、夕顔、千鳥の曲、春の曲、秋の言葉(ことのは)であった。

 楽器を持たずに上京した震一は、飯能にいた姉の家の近くの筝を弾く家と交渉し、受験日まで2週間ほど毎日通って練習させてもらいました。


引用:唯是震一『神仙調舞曲:続 私の半生記』(砂子屋書房、1988)p13-14より