ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:モールス信号

 震一は1943年(昭和18)に小樽高等商業学校(現・小樽商大)へ入学し、札幌から汽車で通学しました。その年に学徒出陣令が布かれ、秋に二十歳になると兵隊検査を受けて甲種合格、入営の壮行会では筝を奏でました。配属になった通信部隊が向かったのは、樺太の気屯(けとん)という所でした。同僚の学徒兵士の中に、東京音楽学校出身の横谷英次君と駒ヶ嶺大三君がいました。通信部隊ではモールス信号のリズムパターンを覚える訓練があり、震一と音楽学校出身の二人はいとも簡単に覚えることができました。

モールス訓練
…ある午後、いつものモールス実習が教官殿の都合で、自習に切換えられた。(中略)この日の自習は各自の技術に合わせ、片仮名文をモールスに翻訳し、それを言葉で発声しながら、電鍵を打つことの課題が与えられた。最初はまじめに各自のペースで自習に専念していたが、その単調な訓練に少なからず飽和感を覚え始めた。機を同じくして、二人の声が同時に、同じ部分を同じ速度で、声の高さを変えて唱えているのが、ほかの声々の中で際立って聴えてきた。私の向い側に並んでいる横谷、駒ヶ嶺の両候補生が音程を変化させて楽し気にモールスを唱えているのである。止せばいいのに、私もテキストの同じ個所を繰り当て、その二声に合せて唱和し始めたのである。三人は無言の中に、長短の三和音や終止形を構成しつつ、知らぬ間に、声もポコ・ア・ポコ・フォルテとなっていた。興に入った三人は飽和感から解放され、夢中になっていたのだろう。管軍曹が入室しているのに気づかずに、なおも続けていたのである。

引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p126-127より