ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

『王道楽土の交響楽』目次・その7

岩野裕一『王道楽土の交響楽 : 満州―知られざる音楽史』(音楽之友社、1999)目次(その7)です。(その6)はこちら

第7章 落日の輝き
   朝鮮人楽家の台頭
   スタウロフスキー奉天在住15周年記念演奏会
   楽都・ハルビンの活況
   国民音楽の創造
   伊藤〓二と映画『勝利の響き』
   甘粕正彦満州国の文化
   『私の鶯』
   内地の作曲家招聘始まる
   朝比奈隆・上海交響楽団・原善一郎
   朝比奈と原、満州
   ハルビンへ、そして内蒙古
   「全満合同交響楽団」―壮麗な葬送曲
   山田和男の来満
   巌本真理の活躍
   敗戦
                         〓はワ冠+且

戦局が次第に厳しさを増す中で、ハルビン交響楽団は活発な活動を続けていました。李香蘭を主役にハルビン響の演奏が『私の鶯』として映画化されました。新京音楽団では1943年10月に組織改革があり、内地の作曲家・指揮者の招聘が始まりました。作曲家の渡邊浦人、小船幸次郎に続き、大阪から上海に移って指揮活動をしていた朝比奈隆が1944年5月に満州入りしました。新京音楽団とハルビン響を指揮した朝比奈は楽員からも歓迎され、1945年には満州演奏家を集結した合同交響楽団を率いて満州各地に演奏旅行を行いました。山田和男も来満し、4月の新京音楽団定期公演で伊福部昭『寒帯林』を初演しました。山田は8月初旬に帰国しましたが、朝比奈は妻子を呼び寄せ、ハルビン響200回記念演奏会に向けベートーベンの交響曲連続演奏を続けていました。そしてハルビン響練習場で『運命』の練習中に、8月15日を迎えました。
(ブログ子註:1945年には深井史郎38歳、朝比奈隆37歳、山田和男(一雄)33歳、伊福部昭31歳、芥川也寸志20歳でした。)