ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎『父・高濱虚子』(その4)日大から芸大へ

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その4は、戦後に父と親しい小宮豊隆校長の招きで東京音楽学校教師となり、矢代秋雄、島岡譲らを指導する一方、日大を貴島清彦らに託して辞任した時期です。1951年には渡仏してコンセルヴァトワールの試験審査員を務めました。

西暦(和暦):事項

  • 1946(昭和21):日大芸術科音楽科復活、主任教授として通う。吉祥寺に転居。東京音楽学校の校長小宮豊隆の依頼で、上野の教師となる。 東京音楽学校には、信時潔下総皖一に、宅孝二、野邊地瓜丸、巌本真理、安川加壽子など加わる。音楽理論を担当。矢代秋雄黛敏郎にレッスン。島岡譲にコンセルヴァトワールの和声を教える。現代音楽協会を再結成し、音楽会開催、弦楽四重奏曲初演。教育出版社の小中高校の音楽教科書を編集。
  • 1949(昭和24):東京音楽学校が芸大音楽学部へ移行。教科制度整備、アメリカ流単位制度導入。邦楽科存続問題。校長選挙。日大芸術科を貴島清彦と外崎幹二に託して辞任。
  • 1950(昭和25):ラザール・レヴィ先生来日。自分は芸大の間宮芳生、諸井誠、松村禎三、池野成、眞鍋理一郎、林光、永冨正之、三木稔といった学生たちを教える。更に篠原眞山本直純広瀬量平らも続く。東大仏文科の三善晃が毎日コンクールに登場、諸井三郎と若い作曲家について語る。
  • 1951(昭和26):コンセルヴァトワールの審査員として渡仏、初めての空路。ギャロワ・モンブランと面会、デュラン社とレデュック社と翻訳の交渉。コンセルヴァトワールのヴァイオリン部門試験審査。矢代秋雄黛敏郎別宮貞雄を教師に紹介。ルヴェル、シャラン、ビュッセル、シモンヌ・プレ、ダリユス・ミロー、サミェル・ルーソー。ビュッセル先生とオペラ鑑賞。演奏会。フォーシュ先生の墓参。
  • 1952(昭和27):ギャロワ・モンブラン(Vn)、ジュヌヴィエーヴ・ジョワ(Pf)を伴って帰国。二人は日本で演奏会。その後の企画につながる。芸大の教授生活、作曲科について。「作曲は教えられるものではない」

 小宮豊隆先生から葉書を受け取った。…小宮先生は、校長として赴任して以来、目ぼしい教授がほとんど皆辞任して去ってしまったあとなので再建に努力されている最中であり、私のことを父から言われ、私へ呼びかけてきたらしいのである。校長室で面会した。…君の学歴から見て、そして、もし君が父親の血を引いていたら良い教師になるであろう、君のお父さんの俳句に関しての指導力は抜群である、というようなことを言われた。(p114-115)

 本科を卒業して研究科にいた島岡譲君も私の教室へ出入りするようになり、コンセルヴァトワールの和声の低音課題と旋律課題を勉強して貰った。彼は、こんなすばらしい音の世界があったのかと感じたらしく、目を輝かせてそれに専心してくれた。日本における音楽書式の第一人者になる島岡君の素地はここから生まれるのである。(p117)

 パリのコンセルヴァトワールから試験官の依嘱が来たからちょっと行かしていただきます、ということを言っただけで、(芸大は)誰も文句をつけず、担当学生を自習させることで学校を休むことができた。…やがてコンセルヴァトワールから入学試験の審査員を依嘱するという書面が郵送されてきた。驚いたことに、それはヴィオロン部門のためのものであった。ビュッセル先生から、和声とか追走曲とかの書式部門は一月になるから、とりあえずこのヴィオロン部門に出席するようにとのことづけがあった。(p134、140)