ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

作曲家

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』を読む

立花隆の大作『武満徹・音楽創造への旅』(文芸春秋、2016)を読み終わる。3月の末からひと月近くかかったが、立花隆の筆勢に圧倒され息をのみつつ、毎日少しずつメモを取りながらの充実した読書だった。武満の音楽は自分で演奏した曲以外はほとんど知らない…

リムスキー・コルサコフ著、菅原明朗訳『和声法要義』

菅原明朗が翻訳し註をつけたこの『和声法要義』は、123ページからなる本文Aと、331ページからなる註Bの2冊で構成されています。リムスキー・コルサコフ(1844-1908)による原本の生成過程は、菅原の序文によると次の通りです。 1871年 リムスキー・コルサコ…

高橋アキと作曲家たち

高橋アキ『パルランド:私のピアノ人生』には多くの作曲家との交流が記されています。目次に出ている名前の外にも、本文中にある作曲家をいくつかピックアップしました。 「Part2 (2) ドロップ・サウンドの快感」より …芸高のソルフェージュの授業に宅孝二先…

菅原明朗・近衛秀麿著『楽器図説』目次

1933年に文芸春秋から出た『楽器図説』の初版です。いわゆる弦楽器の部分を近衛秀麿が書き、他はみな菅原明朗が書いています。楽器の図や演奏写真がたくさん入っています。 菅原明朗、近衛秀麿著『楽器図説』(文芸春秋社、1933)(音楽講座第5篇) 目次 序 …

菅原明朗著『楽器図説』目次

菅原明朗は1933年に『楽器図説』を文芸春秋社から出版しました。「音楽講座」というシリーズの第5篇として出したこれは265ページ、近衛秀麿との共著でした。打楽器・木管・金管・弾弦楽器を菅原が書き、弓弦楽器を近衛が担当し、戦前に10数版を重ねたそうで…

菅原明朗とイタリア(3)イタリア体験と創作

作曲家菅原明朗(1897-1988)の年譜などから、イタリア体験とイタリアに因む創作活動をひろってみました。菅原がイタリアへの思いを募らせていった足跡の一端がおわかりいただければと思います。西暦(年齢)イタリアに関連する体験と創作-1912(15)京都二…

菅原明朗とイタリア(2)イタリア旅行

菅原明朗(1897-1988)の『交響的幻影「イタリア」』(1968)の第1楽章にはラヴェンナの聖堂のモザイク、第2楽章にはスビアーコの修道院、第3楽章には彫刻家ピサーノ父子が題材として使われています。これらの題材は作曲前年の1967年、70歳の時初めてヨーロ…

菅原明朗とイタリア(1)

作曲家菅原明朗(1897-1988)は自分のふるさとについて、第一は生まれ故郷の兵庫県明石をあげたあと、第二、第三のふるさとを次のように語っています。 奈良は大正の後半七年ほどを暮した土地だが、生涯切り離せない第二のふるさとである。わたくしの歩むべ…

菅原明朗の聴いたピッツェッティ

1940年12月に歌舞伎座行われた「紀元二千六百年奉祝楽曲演奏会」では、ピッツェッティの『交響曲イ調』始め4曲が演奏されました。菅原明朗はこの演奏会を聴きに行き、さらにその後に出された録音レコードも聴いています。菅原の評論集には「奉祝レコードを聴…

菅原明朗と銀座の富士アイス

菅原明朗と永井荷風はオペラ『葛飾慕情』上演の頃、銀座の富士アイスでよく打ち合わせたそうです。富士アイスとは大正期にアイスクリームの製造販売から始まった会社で、銀座界隈にも喫茶やレストランを開業していました。菅原たちが打合せたのは、銀座4丁目…

ピッツェッティの作品の演奏歴

1927年〜1981年における日本のプロオケ定期演奏会でのピッツェッティ作品演奏歴です。 Pizzetti, Ildebrando, 1880-1968 イルデブランド・ピッツェッティ Concerto dell'estate 《25'》 夏の交響曲 1968 東フィル #115 (5/25) ニコラ・ルッチ Sinfonia in La…

ピッツェッティ略伝

I.ピッツェッティ(Ildebrando Pizzetti, 1880-1968)の略伝で、紀元二千六百年奉祝会出版スコアに書かれているものです。表記は適宜現代仮名遣い等に改めました。 ピツェッティ略伝 イルデブランド・ピツェッティは、西暦1880年9月20日に、イタリアのパルマ…

「菅原明朗とその時代」

菅原明朗評論集『マエストロの肖像』掲載の「菅原明朗とその時代」(1)(2)には、菅原明朗(1897-1988)の主として戦前の足跡が、12の見出しのもとに簡潔にまとめられています。概要を次の通りご紹介します。 菅原明朗とその時代(1) 明石時代の明朗と…

菅原明朗の作品と著述の数

菅原明朗評論集『マエストロの肖像』には、興味深い表が載っていました。菅原の作曲した作品と、雑誌等に掲載した著述の数を、10年ごとにまとめたものです。全体としては1930年代の業績が多いですが、音楽作品の数は1930年代前後に匹敵する量を、晩年に作曲…

菅原明朗と『丘の上』

慶應義塾のカレッジソングは勇壮な『若き血』が有名ですが、優美な詞とメロディの『丘の上』も親しまれています。この『丘の上』を1928年に作曲したのが菅原明朗(1897-1988)です。『若き血』は前年に堀内敬三(1897-1983)が作詞作曲したもので、慶應英文…

菅原明朗と荻野綾子(3)

菅原明朗評論集『マエストロの肖像』の中に、荻野綾子との仕事について書かれている箇所がありました。1930年11月の演奏会の半年前の記事です。 『祭典物語』がフランスへ航海している自分に野村が私に新しい仕事を作ってくれた。荻野綾子氏のために歌を書け…

菅原明朗と荻野綾子(附録)

(1)で掲載した1930年11月3日の演奏会のプログラムですが、あと2曲あるのを見落していましたので、(1)のエントリーを改訂しておきました。追加した2曲は、山田耕筰作曲『芥子粒夫人(ポストマニ)』と、菅原明朗作曲『内燃機関』です。この日のメインは…

菅原明朗と荻野綾子(2)

荻野(太田)綾子は2回目のパリ滞在から帰国後も、演奏会や放送で菅原明朗の曲を歌っています。N響ライブラリーから1935年のプログラムをご紹介します。 太田綾子独唱 日本歌曲新作演奏会 1935年6月3日(月)19:00 日本青年館 管弦楽 新交響楽団 プログラム …

菅原明朗と荻野綾子(1)改訂版

作曲家菅原明朗(1897-1988)の年譜を見ていると、荻野綾子(1898-1944)の名前が何回もでてくるのがわかります。最初は1930年11月の「菅原明朗・伊藤昇作品発表会」でした。この年33歳の菅原は帝国音楽学校作曲科主任教授となり、4月には箕作秋吉らと「新興…

菅原明朗の作品目録と著作目録

菅原明朗評論集『マエストロの肖像』の巻末には、詳細な年譜とともに「作品目録」「著作目録」がついています。それぞれの凡例から要点を抜粋しました。作品は様々なジャンルにわたり、著作もたくさんで、評論集が編まれたのもなるほどでした。 作品目録 (…

菅原明朗評論集『マエストロの肖像』

マエストロの肖像 : 菅原明朗評論集 / 松下鈞編 立川 : 国立音楽大学附属図書館, 1998.03 iii, 611p ; 22cm 解題: 作曲家菅原明朗(すがわら・めいろう、1897-1988)の、生誕100年記念事業のひとつとして刊行された評論集。菅原が生涯に各種雑誌等に執筆した…

作曲家・小杉太一郎の映画音楽

伊福部昭の弟子、小杉太一郎(こすぎ・たいちろう、1927-1976)が音楽を担当した映画の上映会が、10月24日から11月20日まで、神保町シアターで開催されます。 作曲家・小杉太一郎の仕事 ―名優・小杉勇と映画監督・内田吐夢との絆に導かれた映画音楽の道 <音…

芥川也寸志『音楽の基礎』改版

芥川也寸志の著作の一つ、岩波新書の『音楽の基礎』の改版がでています。この本は1971年の初版以来62刷を重ねているロングセラーでしたが、今年2015年2月に文字を大きくして読みやすくなった63刷改版が発行されました。手に取ってみると確かに譜例の図版も少…

芥川也寸志とメシアン

芥川也寸志が1956年前後にメシアンについて語った言葉。 メシアン(O.Messiaen 1908〜)という現代フランスの作曲家は、複雑なインドのリズムに暗示を得て、まったく新しい形の音楽を書いています。東洋には古くからあったこういう不規則なリズムが、合理的…

黛敏郎と武満徹とメシアンと

武満徹『ソリチュード・ソノール』は、黛敏郎『涅槃交響曲』(Symphony Nirvana)を聴いて感動をうけ、作曲を思い立ったそうです。黛が梵鐘への愛着を示しているのに対し、武満は次のように言っています。 そうだ、私にとって重要なのは、その梵鐘の響きを超…

メシアンと山田一雄

27回演奏会の練習を重ねてくると、どの作曲家の作品にもメシアンの影が浮かび上がってくるのが解ってきました。オリビエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)については、彼がパリ音楽院時代に作曲した『忘れられた捧げもの』(1930)を演奏したことが…

武満徹の本

武満徹(1930-1996)の年譜がないかと書架を見まわしたら、彼の本が3冊並んでました。 武満徹『音、沈黙と測り合えるほどに』(新潮社、1971) 武満徹『樹の鏡、草原の鏡』(新潮社、1975) 小澤征爾, 武満徹『音楽』(新潮社、1981) 最初の本は1974年に買…

三善晃『遠方から無へ』から(6)矢代秋雄

三善晃(1933-2013)は1955年からのパリ留学中に、矢代秋雄(1929-1976)にであいました。矢代が留学していたのは1951年から56年ですので、2年ほど時期が重なっています。矢代の遺稿集は三善晃の編集ですので、交流の深さがうかがえます。 オマージュ 矢代秋…

三善晃『遠方から無へ』から(5)モンブラン先生

三善晃(1933-2013)は東大仏文科3年になった1953年、来日中の作曲家レイモン・ガロワ=モンブラン(Raymond Gallois-Montbrun, 1918-1994)に出会いました。この縁で三善は1955年にパリ高等音楽院に留学してモンブランに師事。その後モンブランは1963年にパ…

三善晃『遠方から無へ』から(4)東大生

三善晃(1933-2013)は1951年東京大学文学部仏文科に入学。東大仏文科といえば、小林秀雄(1902-1983)、今日出海(こん・ひでみ、1903-1984)、中島健蔵(1903-1979)、大江健三郎(1935-)などなどの卒業生が浮かびます。もっとも三善は文学より音楽に浸っ…